ありがたいことに平成22年から留原八坂神社祭礼の本宮において、神輿と山車が氏子中を巡行している間、居囃子舞台をおかりしてお囃子を奉納させていただいています。今年で8年目を迎えます。昨年、一昨年はいくぶん雨模様の本宮となりましたが、今年は雨の心配もなく、山車曳行も無事に行われていました。
留原のお囃子は明治20年頃、引田村(旧秋多町・現あきる野市)から伝えられ、旧五日市町に祭囃子を広めた伝承の起点です。その後、留原から五日市の榮町にお囃子が伝えられました。留原が引田から囃子を伝えられた明治20年頃は、留原は留原村でした。明治22年に市制・町村制が実施され、留原村と小和田村、そして高尾村が合併して三つ里村が誕生します。そして大正7年に五日市町と三つ里村が合併しました。ですから面白いことに、五日市で一番古い囃子連の榮町囃子連さんは大正6年創立ですので、ちょうどこのころに留原から五日市に囃子が伝わったわけです。
その後、五日市町は平成7年に旧秋川市と合併してあきる野市の一部になりました。もともと旧五日市町は歴史が古く、それぞれの地域で文化感の違う1町15村が明治22年に市町村制の施行により1町6村になり、その後、合併を繰り返して大正9年に1町3村になり、昭和30年の合併により五日市町という一つの行政区が誕生したわけです。したがって神社仏閣がとても多く、それに起因して地区ごとに違った文化感をもつ祭礼が、いまでも根付いています。それに付随する郷土芸能も獅子舞、神楽、囃子と多種多様であることが特徴です。
特筆すべきは、このような歴史の中で祭囃子に限っては、全てが留原の囃子を伝承起点としていることです。 それを考えただけでも、留原の先人たちがプライドをもって囃子を繋げてきたかが容易に想像できます。 私の母方の祖父は留原の出身です。長男ではなかったため職業軍人となり、海軍に所属して各地に配属されていたため、囃子はできませんでしたが、一番下の弟が留原でも名人のひとりとうたわれたとんびの名人でした。私がまだ囃子を始めたころ、会うたびに「おめぇは仕事の合間に笛吹いてんのか、笛吹く合間に仕事してんのか」とからかわれたことを思い出します。
何かを教えてくれた方への恩返しは、教えてもらった人がまたそれを誰かに教えること。こうして教えてくれた人の魂がいつまでも繋がっていくことこそが、恩返しになると思っています。
留原の祭礼で、あの居囃子舞台でお囃子をさせていただくということは、そういうことなんだと、耳にタコができるほどにこの8年間、当会のメンバーにはこの話をしてから上町を出発しています。