あきる野市は、平成7年に旧五日市町と旧秋川市が合併して誕生しました。それに伴い郷土芸能団体も一つにまとまり「あきる野市郷土芸能連合会」が設立されました。今年の6月に設立20周年を迎え、その記念行事として秋川キララホールで「郷土芸能まつり」が開催されました。5年毎の周年行事として、このホールをお借りして開催しています。
ですから、この舞台でお囃子を演じるのは約5年ぶりです。連合会に加盟する39団体のうち、21団体が参加し、市内に伝承されている囃子、獅子舞、そして神楽が、一堂に会して披露される貴重な催しとなっています。
しかし残念なことに、客席数702席のうち、多い時間帯でも6割、開演時などは3割くらいの観客者数でした。もうすこしお客様を集める工夫があってもいいのかなぁと、演者としては思いますが、参加団体のための、参加団体による催しとして、参加することに意義があるという体質で開催されていますから、まぁこんなものなのかもしれません。囃子は持ち時間10分、獅子舞と神楽は20分。道具の入れ替えを含めると囃子は正味7~8分の構成で演じるわけですが、これが長いか短いかは、どうやら各団体で温度差があるようです。持ち時間をオーバーする団体もあれば、ショートする団体もありましたが、結果ピッタリと時間には閉会となりまして、あきる野の気質を表しているようでございました。
開催にあたり、連合会の理事としての私の役割は、5年前と同様「出演団体整理係」でした。タイムスケジュールにあわせて搬入から楽屋入り、そして舞台袖への誘導を行ないます。出演者の皆さんや、団体の指揮をとる皆さんと時系列で接しますから、出番前の緊張感がこちらにも伝わってくるようでした。張り詰めた空間で、それがゆえに各団体のカラーがとても鮮明に感じられ、楽しめる役割です。ほんとうに、あきる野市の皆さんは、真面目に郷土芸能に向き合っているなぁ、と強く感じました。楽屋から舞台袖までの通路に太鼓類や大道具、衣装を着た舞方たちが、出待ちで並びますから、ちょっとした道具の展示会のようで、まじまじと他団体の道具を観察したり、古い太鼓の見分け方なども教えていただいたり、とてもいい勉強にもなり、とってもお得な役割だと思いました。
さて、今回の当会の演目は、個々の舞方が自由に舞えるよう、曲ごとに舞を付ける構成で臨みました。 昇殿では藤助、屋台では獅子と天狐、仁羽はてんたともどきを演じました。せっかくの地元開催ですから、日頃より稽古に励むメンバーを、一人でも多く舞台に立たせてあげたいという思いがあり、どうしても連舞になってしまいます。しかし、それはそれで華やかですし、獅子舞の振り付けも、エグザイル獅子とか言われ、笑い交じりの褒め言葉を頂けましたので、それなりにインパクトがあったようでございます。
当会が継承する祭囃子は、青梅の黒沢を起点とする神田流です。もちろんこの流派は、青梅市にも広く継承されており、青梅大祭でも盛んに演じられています。現在は師弟関係のような繋がりは残っていませんが、団体同士の交流を通じて、青梅のお囃子から、私たちはたくさんの事を学ばせていただいています。
「学ぶ」は、「まねぶ(学ぶ)」と同源で、「まねる(真似る)」とも同じ語源です。バチの手技、舞子の衣装や面、所作など、今回当会の演目、構成にも、随所に学びの成果を取り入れました。
どこの団体にもひとりやふたり、熱心に他地域の祭り場に出向き、知識を広げようと努力する者がいるはずです。その知識・見識を、所属する会に持ち帰ったとき「おらが村は、おらが村のやり方でやればいいんだ」という反発を受けることも往々にしてあるようです。しかし、やり方は時代と共に変化するもので、100年続ければ、おらが村のやり方になるのではないでしょうか。それが後継者のみならず、後継者を育成する者のモチベーションキープに繋がるのであれば、会としてそれを学ばないということは怠慢ですし、それを受け入れられない指導者は、なにかを恐れている、ということなのかもしれません。
昭和63年に、当時当会の会長だった故・萩原恒治氏が、ちょっとした伝手を頼りに、大したアポも取らずに青梅市黒沢の囃子方の門戸をたたき、指導を懇願して「古囃子」という曲を学びました。およそ28年前のことです。 結果として現在、あきる野市の神田流のほとんどの団体が、この曲を取り入れて、当たり前のように演じています。
一人の男の、強い思いと憧れが、「古囃子」を五日市に根付かせたわけでございます。 小僧だった私は、この方にとても可愛がっていただきました。酒を飲むと喧嘩っ早く、当時の役員さんたちはいつも翻弄されていた姿が記憶にございます。しかし誰よりも囃子が好きで、「コンクールにでんべぇ」と言い出したのも、この方でした。
任期途中、今の私くらいの歳で逝ってしまいました。